古本屋は医者に似ている

松沢 呉一 文筆家

古本屋というのはつくづく妙な商売ではある。この妙さは、客との関係において、如実に表れる。

この私も仕事柄、また仕事を離れた趣味としても、毎月毎月大量の古本を買っているわけだが、本を買う度に、心から「ありがとうございます」と言いたくなり、事実、よくそう口にし、郵便局の振替用紙にもたいてい書き添えている。

しかし、時々、「ん、待てよ」と思う。金を払っているのはこちらである。古本を買い過ぎて、食費にも事欠くような生活なのに、どうしてこうもお礼を言い続けているのだろう。「長い間探していたこの本との出会いを作っていただいて、ありがとうございます」「こんなにいい本をこんなに安く売っていただいてありがとうございます」「注文が殺到したでしょうに、私に売っていただいてありがとうございます」「ありがとうございます」の中味はざっとこんなところだ。それぞれお礼を言うに値するのだから、何の不思議もありはしない。にもかかわらずこのことを改めて考えて、いくばくかの疑問を抱いてしまうのは、古本以外の商売において、客がお礼を言うことがあまりに少ないからだろう。

客にお礼を言われることが頻繁にある商売と言えば、医者や弁護士といったところだろうか。古本屋さんというのは、これらの商売に類似する質を持つのだ。

同じ金額を払えば、常に同じ商品が容易に入手できたり、同じサービスが受けられるとは限らない商売では、客が頭を下げることになる傾向がある。医者も弁護士も、明らかに力量というものがあって、同じ金を払っても、病気が完治する場合と悪化する場合がある。無罪になる場合と死刑になる場合がある。

これらの結果の違いは、医者や弁護士の力量とは関係のない運みたいなものも大きく関わっているわけだが、であるが故に、患者、依頼人という名の客たちは、医者、弁護士に全的な信頼を置くしかなく、頭を下げたくなる。

また、医者も弁護士も、国家試験を通った職能であり、選ばれた人である。誰もが真似をできず、社会になくてはならないという意味で、予め尊敬を受ける職業であることも、無条件の「ありがとうございます」につながる。

一方、同じ商品を常に得られる場合は、売る側が圧倒的に弱くなる。コンビニの品揃えは、どこのチェーンも同じようなものだし、値段もだいたい定価販売。以前はそれでも店の数が少なかったから、店員の態度が悪くても、客は不満を抱かなかった。店としては「イヤだったら、うちで買わなくてもいいんだよ」という態度でよかったのだ。深夜にやっている店は他にないのだから、代用がきかない。

ところが、同じ町内にコンビニが乱立するようになると、事情は違ってくる。セブンイレブンで買うカップヌードルもローソンで買うカップヌードルも、ミニストップで買うカップヌードルも、値段も味も一緒となれば、客としては 「いいんだよ、別に。あっちの店で買うから」と言ってしまえる。

そこで、コンビニはテレビコマーシャルを大量に流して、企業イメージで勝負し、笑顔で「ありがとうございました」と言うように店員を教育するしかなくなる。

ガソリンもその典型的な商品だ。「大阪より京都のガソリンの方が燃費がいいぞ」「それより神戸のガソリンはキメが細かいらしい」ということになれば話は別だが、全国どこでもガソリンはガソリン。となるとやっぱりコマーシャルで知名度を上げ、あたかも商品が違うかのような錯誤を広げようとする。あるいは、窓を拭いたり、タバコの灰を捨てたり、大きな声で「ありがとうございます。またお越しください」と帽子を脱いで頭を下げるなどして、ガソリン以外のところで勝負する。それでも勝負がつかなければ、値下げ競争でつぶし合うしかない。

つまり、ボチボチのものしか提供していない、どこでも入手できる程度のものしか提供していないと、売る側が頭を下げることになる。大量生産、大量消費の時代には客が偉くなるのである。今の時代にはこれが常態となっているが、阪神大震災の時には、客と店の関係が一部逆転した。必需品が入手しにくいため、店が「売ってやる」立場になったのだ。このことを批判的にとらえるマスコミもあったが、常に客が偉いわけではないことを知らしめるにはいい機会であった。

その点、医者も弁護士も、あまり客に頭を下げないのは、「オレたちゃ、そんじょそこらにあるものを提供しているんじゃなく、特殊なサービスを提供しているのだ」とのプライドを持っているためだろうし、絶対数が少ないためでもある。幻想の部分があるにしても、頭を下げないことが威厳を高めてもいる。腰がやたらに低く、診察を終わったらペコペコと頭を下げて、「ありがとうございました」とお礼を言い、患者に「本年はお世話になりました。来年もよろしく」などとお歳暮を送るような医者は信用されまい。

古本業界の方々は先刻ご承知の通り、同じく本を商品として扱いながら、古本と新刊とは決定的に違う。拙著のような小部数のものだって、在庫があれば、全国どこの書店からでも注文して取り寄せることができる。料金は全国一緒だ。それだけ日本の書籍流通が優れているということなのだが、それが当たり前になってしまっているため、新刊屋さんは客に感謝されることがほとんどない。

それどころか、知り合いの新刊屋さんに聞くと、立ち読みは当たり前、万引きは当たり前、「注文したのに、届くのが遅い」と三日で文句を言われる。楽そうに見えるが、実は重労働で、そのくせ給料が安く、あれほどわりに合わない仕事はないだろう。

まして、コンビニでもキオスクでも同じ雑誌が人手できる時代となれば、書店側が譲歩して、営業時間は延ばすわ、しおりやカレンダーをつけるわ、今までよりももっと深く頭を下げるわで、ひたすら書店が下手に出るしかない。それもこれも商品の特性なのだ。

対して古本の場合は、その本を見かけた時に買っておかないと、次にいつ入手できるかわからない。事実、目録をマメに見ていても、年に一度出ればいい方というレア物があって、土下座してでも入手したい。見せろというなら、ケツの穴だって見せないではない。「あんたには売らないよ。他に行ってくれ」と言われたらそれまで。店の代用はきかず、本の代用もきかない。「漱石がないから、鴎外でいいや」とはならないのだ。

特に目録販売の場合は、売る側の胸先三寸である。「あいつは支払いが遅いから、こっちの人にしよう」「いつも店頭でたくさん買い物をしてくれるから、何冊かは当てないわけにはいくまい」「字が汚ねえからこいつは嫌い」といったように「抽選」が行われる以上、客が下手に出るしかない。というより、入手できると、本当に嬉しくて、自然と頭を下げてしまう。

最近、こんなことがあった。目録に出ていた古本がやたらと安い。しかも、珍しいものがズラリと並んでいて、私が初めて見るものも多数含まれていた。珍しくて安いのだから、大喜びというところだが、私は大層立腹した。「こんな値段じゃ、注文が殺到するじゃないか」と思ったのだ。

値付けは古本屋さんの思想みたいなものだから、こういうことを言ってはいけないとわかりながら、私はその書店さんへの注文書に「安すぎます」と不平を書いた。あとで、「他の人からも同じことを言われました」と返事があった。注文品の多くを売っていただけたから、すぐさま礼状をFAXで送ったのだが、もし外れていたら、「だから安すぎるんだよ、ガシャン」と深夜のイタズラ電話をしないではいられなかったかもしれない。安すぎて怒られる商売はそうはないだろう。

さて、この私、何人かの仲間とともに、東京の中野で、タコシェという妙ちくりんな店をやっている。ジャンルを問わず、あまり世の中に流通していない書籍やポスター、CD、ビデオ、絵、オブジェなどを売る雑貨屋みたいなもんだ。

この店も居丈高な店ではある。割引販売はほとんどやらないし、ニコニコ笑顔を振り撒いたりもしない。中には「態度が悪い」などと文句を言ってくる客もいるのだが、私らの態度が気に入らないのなら、来なければよろしい。

タコシェは非常に効率の悪い商売をやっていて、場合によっては、商品の確保をするための経費がバカにならず、何の儲けも出ないことだってある。補充のきかない商品も多いから、本当に欲しがってる人だけに売りたいと思うこともよくある。

これで贅沢三昧の生活をできているのなら、もっと頭も下げようが、そうでもないのに、「買ってやる」といった態度をとる客がいるとカチンと来る。客が「買ってやる」というのなら、こっちは「売ってやる」のである。もちろん「買わせていただく」という態度の客には「売らせていただく」という態度で接している。つまりは客と売り手が対等というのが我々の考えであって、客というだけで偉ぶっていただきたくない。

もし我々がこういった態度で商売をし続けることができなくなったなら、その時は店を潰せばいい。他で簡単に入手できる商品しかないということなのだから、タコシェの存続意義は既にない。

古本屋もそうであって欲しいのだ。残念ながら、「二度と来るな」と言われても、あまり困らないタイプの古本屋が多くなっている。「二度と来るな」と言われたわけではないのに、店の近くに行っても、素通りしてしまう店が現にたくさんある。

店の中に入るなり、「これは‥と絶句してしまうような品揃えをしていて、店主の努力やセンスの凄み出ている店。いざ話してみると、その知識の奥深さに頭を下げてしまいたくなる店。店主は笑顔で「ありがとう」なんて言いはせず、近所の人に「偏屈オヤジ」と囁かれるが、それでも行かないではいられない店。「お客は神様」だなんて勘違いした客が追い返され、買う気のない立ち読み客が注意され、「二度と来るか」と捨てぜりふを吐くような店。古本屋はそうあって欲しい。

いつまでも「ありがとうございました」と頭を下げたいものである。

松沢 呉一

1958年生。もともとは文化ジャンル全般を得意分野とし、古本にまつわる文筆も多かったが、ここ数年はもっぱら性風俗関係の取材を続けるライター。
「アサヒ芸能」「創」「アクションカメラ」「BUBKA」などで連載。『風俗バンザイ』(創出版)、『糞尿タン』(青林堂)など著書多数。最新刊に『熟女の旅』(ポット出版)がある。インターネットでも大量の原稿を発表。 http://www.pot.co.jp/

ページの先頭へ