衆知されるべき 羞恥の喪失について

米沢 嘉博 編集者・作家

60年代末から70年代にかけて、ちょっとでも自意識のある人間にとって「知らない」と言ってしまうことはとても恥ずかしいことだった。友人との話しの折に、知らないことが出てくると、「それはね…」などと適当に受け流しておいて、後で調べたり、本を捜して読んだりして、その欠落を埋めることも多かった。いかなる強迫観念に取り憑かれていたのかはっきりとしないが、また、誰もが「知ってますか?」という前置きで、いろんなことをしゃべり、議論をふっかけ、日常にはさほど役に立たないことをしゃべりあっていたような気もする。
言葉でコミュニケーションをとろうとする人間たちにとって、知識は必需品だったし、そのために本はそれを提供してくれるものだった。それに、女の子をひっかけるのに、例えばサルトルや大江、ブルトンにエリュアール、渋澤に種村といった本は絶大なる武器になっていたはずだ。そんなものを全く知らない女の子たちでも、へえーっとか感心してくれたものだし、「知」は女の子たちに対して魅力的でありえていた。ジャズ喫茶や公園には、本のタイトルが見えるようにポーズした若い男の子たちをよく見たものだ。どれだけ、うまくいっていたのかは知らないが、女の子たちの部屋にもあまり脆絡なく、そんな本が少しずつ並んでいたところを見ると、どこぞの男に感化されたりしていたのだろう。

本は、コミュニケーションツールであり、軟派アイテムでもあったことは、誰も言わないことだが、一つの真実だったと思う。

やがて「本」のアイテムとしての攻撃力は下がり、ファッションだとかエレキギターだとか、アイテムは変り続けていった。そういえば、一時、ファンタジーとか児童書が、そんな力を発揮したこともあったはずだ。本から、そんな磁力が失われていったのは、バブル期に顕著だったのかもしれない。BMWやらブランド物やらレストランガイドの方が、ずっと有効なアイテムに変わっていったのだからだ。

そして今、誰もが「知らない」ということをてらいもなく言えるし、「知らない事」はすぐに捨てられて、会話は次のステージに移っていく。本はトレンディでもなければ、男の子の何らかの「力」を表すものでもなくなってしまった。一方、マニア間のコミュニケーションでは、その場におけるレベルを争うものとして「情報」は有効な武器たりえたが、「好きだ」というアリバイによって、体系化する意志は失われ、情報だけが蓄積されていく。一歩その場を出ると、知っていることは何の役にもたたない。そうして、そこを極めようとすると、他のジャンルにまで手を伸ばす余裕など何処にもないのだ。しかも、それぞれのサロンは、先細りしていく一方だ。限定本だろうが、マンガだろうが、ミステリーだろうが、そんなサロンを中心に、古書の争奪戦が繰り広げられてきたことを知るにつけ、そこでもアイテムとして機能していた部分を忘れてしまうわけにはいくまい。ここでは女の子に対してではなく、優位に立つための武器として使用されるのだ。

本を中心とした情報社会、あるいはネットワークといったものの喪失。編集者やライターと話すと、最近出た本や出る本についての話しになるのだが、その本が五千部しか出ていないことを知ると、日本の人口から考えて、二万四千人の中の一人である読者同士が、出会えてしまっていることの不思議に思いあたる。古書に関する本が随分と出、それなりに売れているというが、古書店主の購読率を考えると、一般にはほとんど出回ってはいまい。出版に関する本だって、業界人によって読まれているのだと思う。それだったら、つまり業界誌と同様の受容のされ方なのだ。本は、出版関係者、古書店など本に関わる人間たちによってその多くが消費されているのではないのか。もちろん、ベストセラーはちょっと違うのだが、そんな本はブックオフに並ぶことはあっても、古書店の扱うものではないだろう。大衆という幻想、大衆というパトロンによって成立していたマスセールの出版というシステムは、システムの側にいる人間によってかろうじて買い支えられているという状況が見えてくるのだ。

で、古書店はといえば、この先細っていく出版の中で、わずかばかり生き残っている、知らないことを恥ずかしいと思う人間たちに向けて、知らない本を開陳していってもらいたい。毎日、何店かの新刊書店をのぞく人間でさえ、見たことのない本が、ゾッキで積みあげられて、それで知ることになったりするのが現代の流通事情だからだ。3~5万の地方都市には一冊も配本されない本などゴマンとある。ある程度の部数が出ていても、読み捨てられていって残っていない雑誌も多いだろう。これには何が書いてあるのだろう、あるいはどんな物語なのだろう、どんな著者なのだろう、タイトルに想像力を掻きたてられる時、ぼくは目録にマルをつける。

考えてみれば、60年代、マンガを何度も読み返すためもあって集めようと思ったが、それは古本屋にはほとんど並んでいなかった。野田宏一郎のエッセイを読んで、科学小説やら変格探偵小説を捜しに行った時も、それらしい本はK市内の古書店には一冊も発見できなかった。少女マンガの歴史をまとめようと少女雑誌を見つけようとした70年代半ば頃にも、そんなものを扱っている古書店はなかったし、「三流劇画の世界」のためにエロ劇画を捜しに出かけてもほとんどひろうことはできなかった。『コレクター』(他の執筆者には竹熊健太郎、大塚英志、高取英など)という自販機本で「古今東西グロテスク縁起」という連載をやっていて、寄生虫、奇型、死体といった後のサブカル系で流行したようなものを80年頃集めようとしても、ポツポツと均一台で買うことしかできなかった。マンガは貸本屋で、SFはイベントのオークションなどで、そして雑誌はタテ場で、手に入れるしかなかった。古本屋は、その時代、そんなものを扱おうと考えもしなかったのだ。

中途半端な古さの本、大した儲けにならない本、読み捨て雑誌、そして棚に並べるのが恥ずかしい本……古本屋が目もくれず、潰していった本は、数限りない。一方、何処にいっても並んでいる本がある。合同目録、即売会目録に必ず何処かの書店が出している本がある。たぶんそれは古書店が愛している本なのだろう。目録に載せて、棚に並べて恥ずかしくない本なのだろう。古書エッセイなどで読むと、古書店の棚は店主の蔵書であって、その見識や知識を披露するものでもあるという。そのことにも頷けるのだが、のぞきに行く方からするなら、それならば、古書店主にはさらなる個性と多様性が欲しいと思ってしまうのだ。本来、本に価値を見つけ出すのはユーザー側でなければならない。本は選ばれるのであって、選んでおかれるものであってはならないはずなのだ。

しかし、その膨大な本の量とジャンルの細分化がユーザー側を混乱させる。ナビゲーターが90年代に入って出現したのは、そんな状況故だったのだろうが、それさえもナビゲーターが増えすぎたことによって、小さなブームやトレンドは検証されるまもなく、消費されていった。それなりの値がついていることを除けば。

……もちろん、専門古書店の存在はありがたい。個性のある目録を発行する書店も増えてきた。小さなジャンルに強い古書店だって少なくない。にしても、解り易すぎるほど目的のはっきりとした古書店のナビゲーションは、あっという間に見切られてしまう。熱狂は作り出されても長続きしない。投資、背取り、転売、ネットオークショニストなどによって、そのジャンルもあっという間に食い尽されてしまうのだ。マンガだけここ数年を見ても、怪奇マンガ、エロ劇画、少女マンガと古本のトレンドは変化してきている。

だが、そのブームが出現する前には、本そのものが古書店の棚には並ばず、目録に載ることなどなかったのも事実なのだ。プレミアムがついたから個人の本が売られるようになったのか、それとも、それまでは潰されたり、してきたのかは半々にしても、ブームはありがたい半面、悲しい。焼き畑農業的なブームの消費は、徐々に矮小化し、さらには笛吹けど踊らずといった状況を作り出していきかねないと思うのだ。

本が売れないと出版社は言う。ライターたちは食えなくなったと口をそろえて言う。これ以上、ライターや小説家が増えて欲しくないと呟く。古書店は売れないと愚知る。状況の打開に向けたネット販売は何処も10~30万程度の枠を越えられないとも聞いた。本を取り巻く状況で、明るい話題をここ数年聞いたことがない。需要と供給の関係は崩れっぱなしだ。市場原理から言うならば、供給を押さえ、品薄感を演出し、同時に需要、消費を拡大しさえすればということになるのだろうが、事はそう簡単にはいくまい。だが、古書に関しては、まだユーザーの拡大と掘り起こしは出来るはずなのだ。本の面白さ、本の中に何があるのかはもっと教えていかなければいけないし、一般メディアでの目録やオークションなどの露出、古書店をモチーフにしたマンガやトレンディドラマなど、やられていないことは沢山ある。限定されたユーザーだけを対象に、高齢化と利用者の減少に身を任せているだけなら、未来はない。

もちろん、もっとも必要なのは、知や情報の持つ力の復権であり、失われつつある大衆の好奇心を甦らせることであることはまちがいない。知らないことは、恥であることを、今一度教えていくべき時代がきているのかもしれないと思うのである。

米沢 嘉博

1953年熊本生まれ。 『漫画新批評体系』の活動を経て、『劇画アリス』、『マンガ奇想天外』などの編集に携わる。また漫画同人誌即売会「コミケット」の代表を長くつとめている。著書に『戦後少女マンガ史』(新評社)、『マンガ批評宣言』(亜紀書房)、『別冊太陽 発禁本』(編 平凡社)などがある。『藤子不二夫論』(河出書房新社)が、この秋には出る。

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